2011年




ーー−12/6−ーー 能登旅行


11月の末、能登半島から金沢にかけて旅行へ行った。

 我が家では、観光旅行へ行ったことがほとんどない。泊りがけの旅行となると、片手で余るほどしか経験していない。今回の旅行も、信州へ越してきてから23年間で初めてのことだった。

 今年は大竹工房の開業20周年にあたる。それを記念してと言うわけでは無いが、なんとなく旅へ出る話が持ち上がった。私は、旅行へ行くなら海が見える場所が良いと言った。山国に住んでいる身にとって、海は常に憧れの対象である。家内もそれに同意した。そのような理由で、能登半島に決まった。一度は行ってみたいと思っていた兼六園とのからみで、このエリアに絞られたとも言える。

 贅沢ができる家計状況では無いので、宿泊施設は家内がネットを調べまくって、格安の宿を探した。公共交通機関を使っての旅は魅力だが、金も時間も掛かるので、自家用車で回ることにした。日程は二泊三日。旅行に不慣れな者にとって、これくらいが丁度よいと思われた。

 初冬の能登。ひとことで言うならば、空いていた。道路が空いていた。宿もがらんとしていた。行く先々の名所でも、ほとんど観光客がいなくて静かだった。

 私は、日々の暮らしの中でも、食堂や商店、映画館などへ入って、混雑するのが嫌いである。人が少なければ、とりあえず満足というくらい、空いているのを好む。その意味では、今回の旅行は合格点だったと言える。

 初日と二日目で、能登半島を左回りに走破した。車窓の右手には、延々と日本海が見えていた。たった二日間だが、「これでもか」というほど海を見た。これで旅行の目的の大半は遂げられた。珠洲市の海岸では、車から降りて、磯を散策した。海の中を覗きこんだり、岩に当たって砕ける波を眺めたりした。海面の高さで見る海は、生々しい印象だった。

 名所と言うのは、行ってみると失望することもある。それでも一応観光旅行だから、マップに記された名所に近づくと、見逃さないよう注意し、車を降りて眺め、写真を撮った。中でも一番マイナーだったのは「ゴジラ岩」。これをわざわざ見に来た人がいたとしたら、がっかりするだろう。しかし、こういったある種の下らなさが、観光旅行が持つ性質の一部かも知れない。下らなかった事が、思い出話になることもある。

 そのような名所より、車窓に映る家々、耕作地、漁村などの、言わばなにげない風景が、むしろ旅情をかきたてる。この地で人々はどのように暮らし、何を思って日々を過ごしているのか。何故人はこのように辺鄙な場所にさえ住まなければならないのか。そのような疑問が、車のエンジン音と重なり、旅の間中一貫して流れていた。

 能登の海岸線の住居は、ほぼ100パーセント板張りの外壁である。都会で普通に見られるモルタルの家は一軒も無かった。モルタルだと、海風によって、下地の金網が腐食するからであろうか。ともかく、どこを通っても、横に板を張った家しか見当たらない。どの集落も、同じような造りの家が、軒を連ねている。その自然に溶け込んでしまいそうな光景は、まるで時間が止まったかのような印象を与えた。

 冬の日本海から吹き付ける強風を防ぐために、木の板を立てて並べ、その間を竹で塞いだ、間垣と呼ばれる高さ数メートルの壁。その間垣に囲まれた集落があった。一見すると砦のようであり、恐ろしいような印象さえある。強い風が、海水の粒を伴って陸に吹き付ける。それを拒むための要塞だ。灰色の空と、鉛色の海が威圧する、真冬の光景が想像された。それにしても、何故こんなに厳しい自然の中で営みを続けて行かねばならないのか。例の疑問が、また頭をよぎった。

 二晩目は金沢市に泊り、翌日兼六園を見に行った。評判通りの素晴らしい庭園だと、私は感じたが、家内はしばらくすると飽きてしまったようだ。自然を間近に感じる信州の生活から見れば、自然を模倣しただけの庭園は興味に乏しいと言うのである。そんな事を言われては、風流も形無しだが、まあ人の感じ方は様々である。スケールが大き過ぎて、的が絞れない故の印象かとも思う。

 帰路は、行きに通った糸魚川経由ではなく、平湯から安房トンネルを抜けて、安曇野に戻った。海辺の地域から、急に山の中、しかもかなり奥深い所を通過することになった。見慣れているはずの山国の景色が、懐かしいもののように見えたのも、旅情のなせる業だったのか。

 ところで、うちの車にはカーナビが付いていない。道路マップを見ながらの旅である。自宅の回りしか運転をしたことが無い家内が、助手席でマップを追う。しかもマップは7年前のもの。田舎道は良いとしても、都市部に入ると道が変わっている。夕方暗くなった金沢市街で、宿へ着くまでのこ一時間、車の中はパニックだった。さらに翌日も、高速道のインターチェンジに至る道が分からなくなり、迷った。通りがかりの交番で、道を聞いた。

 今回の教訓は、マップは新しい物を使うこと、そして見知らぬ土地に入る時は、明るい時間に目的地まで行くこと。もっとも、このような不便さがもたらすハプニングが、旅の思い出に興を添えるのかも知れない。予定通り、首尾よく終わることだけが旅ではない。紆余曲折は人生の常である。

 さて、この旅行のことをブログに載せたら「HANA-BIという映画のようですね」とコメントを下さった方がいた。その映画では、悲しみを背負った中年夫婦が、車で旅をするシーンがある。我が家の場合、心配事は尽きないが、幸いにも大きな悲しみには見舞われていない。それでも、盛りを過ぎた年齢には、多少なりとも哀愁がつきまとう。たしかに、あの映画のシーンを思い出させるものがあった。そして行く先々に、同じようなHANA-BI風の熟年カップルがいた。




ーーー12/13−−− 機械は酷使でガタが来る


 画像は、自動鉋盤という木工機械である。片面を平らに加工した板を、この機械に通すと、反対側の面が平行に削られる。つまり、厚みが一定の板が出来上がる。材がモーター駆動のローラーで自動的に送り込まれるので、このような名称が付いている。

 鋼鉄の塊のように見える機械で、たいへん頑丈に出来ている。重量もかなりのものである。ところが、こんな機械でも、使い方に注意しないと、ガタが来るらしい。

 ある工務店の親方と、私の工房で立ち話をしたとき、自動鉋盤を見ながら、そんな話題になった。「大竹さんの機械は、薄い板でも削れますか?」と言うので「3ミリくらいなら問題無いですよ」と答えた。すると親方は、自分の作業場の機械は、ガタが来ていて精度が悪く、とてもそんな薄さでは削れないとこぼした。

 理由は、若い大工たちの使い方が荒っぽいからだと言う。厚みを減らすのに、少しづつ何度も通すのは面倒だから、一回の削り量を多く設定する。1ミリづつ厚みを落とすべきところを、一気に1センチも落としたりする。建築に使う針葉樹は比較的軟らかいが、そんなことをされたら、機械にとってはたまらない。さらに、何人もの職人が一台の機械を使うので、設定が違っている事に気付かず、とんでもない厚みのものを突っ込んだりする。

 そんな使用状況だと、機械はガタガタになってしまうらしい。ガタガタになると、精度が出ず、細かい仕事に支障を来たす。親方の悩みはそこにあった。私は、こんな頑丈な鋼鉄製の機械が、木を削るだけでそんなに傷むという事を聞いて、ちょっと驚いた。

 私は慎重すぎるくらいの人間だから、機械の使い方も丁寧である。しかも、一人で使っているので、使用頻度が少ない。しょっちゅう使われている工務店の機械に比べたら、とてもマイルドな使用環境である。だから、20年使った現在でも、機械の調子は良好である。しかし、一度だけ、ギョッとした出来事があった。

 商業見本市のブースの部材加工を請け負ったことがあった。大きな仕事なので、若い木工家が私の工房へ手伝いに来た。巾広の厚板を自動鉋盤へ通す段になった。私なら、慎重に厚みをチェックし、板の一番厚い部分がかする程度の設定から始める。しかしその若者は、無頓着だった。普段からそうなのか、それとも他人の機械だから手を抜いたのか。私がチェックをする間も与えず、板を突っ込んだ。その板は、端に比べて中ほどが極端に厚かった。板が進むにつれて切削音が大きくなり、ついに悲鳴のような大音響をあげ、板が止まってしまった。その瞬間、電源のブレーカーが落ちた。

 思い出して見れば、このような使い方を繰り返せば、機械もガタが来ると想像できる。

 先日、近所の木工家K氏と、似たような話をした。氏は若いころ、松本の大手木工家具工場で働いた経験がある。その工場では、自動鉋盤の取り扱い規定に、一回で減らす厚みの限度が決められていたと言う。そして、ちょっとした手違いで深削りをし、大きな音を出すと、近くの職人の眼がいっせいに注がれたそうである。大手の木工所というと、荒っぽくガンガン機械を使うというイメージがあったが、意外に慎重なところもあるようだ。

 関連して、K氏はこんなことを言った「機械作業は、音で判断するものだ」。その意見には、共感を覚える。どんな木工機械でも、正常な運転と、異常な運転は、音が違う。刃物の切れ味が落ちたのも、音で判断できる。木目に沿った切削と、木目に逆らった切削は、やはり音が違う。木工作業は、五感を使って行うものなのである。





ーーー12/20−−− 薪箱


 ストーブの薪を入れる箱。自宅用に作ってみた。

 これまでは、ホームセンターで売っている、プラスチック製のコンテナを使っていた。それには三つほど欠点があった。容量が小さいこと、持ち運びが辛いこと、見栄えが悪いこと。

 それでも、これまでは気に掛けずに使ってきた。何故気にしなかったのかと言えば、薪ストーブの出番があまり無かったからである。

 薪ストーブは、ロビーと呼ばれる10坪ほどの大部屋に設置されている。この部屋は、両親の居住区画と、私の家族の居住区画の中間にあり、言わば境界線のような存在だった。普段の生活には使われず、来客を迎えたり、年に数回のパーティーのときだけ使われた。従って、薪ストーブが焚かれる回数は少なかった。

 両親が居なくなり、子供たちも全員家を出て、7人で住んでいたこの家も、今は家内と二人だけになった。その家内も昨年秋に勤めを辞め、一日中家に居るようになった。生活スタイルが変わり、ロビーの使い方が変わってきた。

 家内は布を縫って服や小物を作るのが趣味だが、家に居るようになってから、それに熱中するようになった。他に用事が無ければ、一日中それをやっている。その作業を、ロビーの大テーブルでやる。大テーブルは2メートルほどの長さがある。それを作業台代わりに使うのである。

 この夏からは、三度の食事もロビーで取るようになった。地デジテレビをロビーに置いたからである。かくして、ロビーは一日のほとんどをそこで過ごす場所となった。

 ロビーの暖房は、薪ストーブだけである。一日中燃やすようになると、薪の消費量は激増する。これまでのように、プラスチック製コンテナで運び、ためておくのは大変になってきた。また、ロビーでの滞在時間が長くなると、目に付く道具の見栄えも気になってくる。

 そこで、簡単な構造で、しかし頑丈な作りで、この薪箱を作ってみた。材はホワイト・アッシュ。十数年前に、ある材木店から処分品として安値で入手したものである。商品の家具に使える材ではないが、こういう用途なら丁度良い。

 上に開いた形の箱にした。以前どこかで、このような形のものを見た記憶がある。実際に出来上がった箱を使ってみると、薪の出し入れの際に、とても具合が良い。この形状が、利いているようである。


 底にキャスターが付けてあるので、移動がラクだ。外の薪置き場から、一輪車で薪を運び、家の入口でこの薪箱に移し替える。そして、ゴロゴロ押してストーブの脇に持って来る。

 以前は、コンテナに入れた薪を担いで、この画像の扉を通るのが、とても嫌な作業だった。この箱を使えば、コンテナ二杯以上の量の薪を、なんなく運ぶことが出来る。

 ところで、この薪箱には、丸太を割って作った薪を入れる。他に、工房から出る端材も薪として使う。この端材の方は、相変わらずコンテナに入れて運び、ストーブの脇に置く。何故なら、年間を通じて出る端材を、コンテナに入れて保管しているからである。

 工房で発生した端材をコンテナに入れ、いっぱいになると屋外の保管場所へ移す。夏の間に、数十のコンテナが端材で充たされる。それを順番に運んで、ストーブの所へ持ってくるという流れ。

 今回、薪箱のキャスターの便利さに気付き、コンテナもキャスターで運ぶようにした。板にキャスターを取り付けただけの台車を作り、それにコンテナを載せるのである。これで、入り口からストーブまでの運搬がラクになった。例の扉の通過も、苦にならない。

 家内は、部屋の掃除の際に、移動が簡単になって良かったと言う。薪とか端材は、とかく木屑が散らかるのだ。




 コンテナは見栄えが悪いが、この台車に載っていると、少しはオシャレである。

 そして、来客時には、ササッと別室へ移動する。そうすれば、木製の薪箱だけ残って、雰囲気が良い。

 











ーーー12/27−−− 一年を振り返る


 今年も残すところ4日となった。言わずもがなであるが、たいへんな一年であった。

 3月11日の夜は、いまだかつてない焦燥の体験をした。宮城県の海岸でヨットの合宿に参加していた、次女の消息が掴めなかったからである。結果として、次女も含め、部員全員が無事に避難をした。あのような大災害の場合、何が起きても不思議は無い。生き延びられたことは本当に幸運だったと思う。その反面、家族を失い、生活の基盤を奪われた多くの人々の苦しみが、他人事ではないように感じられた。あの日以来、私は売り上げの5パーセントを被災者支援へ寄付することにした。こんな零細木工家が寄付をしても、雀の涙ほどしかないが、悲惨な出来事を記憶から消さず、復興にかける願いを共有するために、可能な限り続けて行きたいと思う。

 原発事故。国民が選んだ政府が国策として進め、地域社会も容認した事業ではある。しかし、絶対安全を唱えてきた事がこの結果を招いたのだから、国民、市民が騙されたと言っても過言ではない。利潤追求のために結託し、世論を操って推進しながら、危険に対する指摘は黙殺してきた行政と事業者に、まず責任がある。科学知識が乏しい政治家を、上手い話で丸めこみ、その気にさせた科学者にも、責任がある。「しかたなかった」で済ましてはいけないのだ。現在でも、隕石の落下は考慮されていないようだ。確率が低く、しかも防ぐ手段が無いというのが理由だろうが、そんなことで良いのかとも思う。「まさか」と「しかたない」が、どれほどの被害をもたらしたか。

 今年は、大竹工房の開業20周年にあたる。恒例の秋の展示会も、それなりに費用をかけて臨んだ。しかし、期待したほどの盛り上がりは無かった。このご時世だから、やむを得ない事であろう。それでも、ある程度の結果はもたらされた。ありがたい事だと感謝した。

 一年を通じて、あらたなお客様との出会いがあった。どの方も、素敵な人柄の持ち主だった。不安の陰が広がるこの時に、仕事を通じて心の交流を持てるというのは、嬉しい事である。希望の光を見たような気持ちにもなった。

 それでは皆様、よいお年をお迎え下さい。

 


 



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